ブラブラ

ブラブラした場所です。地図のマークをクリックしてご覧ください。

鎌倉散歩

◼︎稲村が崎  2008年

近くのギャラリーへ時々遊びに行きました 木道の向こうに、海が見えていました

そして2008年 事務所を根津に移転しました

◼︎鎌倉 やぐらのある住宅(鎌倉歴史文化交流館) 2015年

「東京のちいさな美術館めぐり」という本を出版されているフリーライターの浦島茂世さんが企画した、鎌倉の「やぐらのある美術館になる予定だったノーマン・フォスター設計の建物見にいこうぜ会」に友人の誘いで参加してきました。
ここは、中世は無量寺という寺があり、その後刀工綱廣の屋敷、大正時代には岩崎小弥太の別荘があり、2004年にイギリスの建築家、ノーマン・フォスター設計の美術館とする計画もあった住宅が建設され、その後鎌倉市の所有となり2017年鎌倉歴史文化交流館として公開されました。
(以下内容の記載は、2015年当時です)

鎌倉にノーマン・フォスター設計の住宅があるということにもちょっと驚いたのですが、この門の前は何度か通ったことがある!という場所でした

入った瞬間からスケールの大きさに驚いたわけですが、石の壁に光ファイバーがしこまれている通路を通り・・・

遺跡をのぞむリビング(なのかな?)に向かいます

廊下の突き当たりや

地下のプールからも「やぐら」が見えます

室内に外部を取り込んだ家・・・とよく言いますが、室内に遺跡を取り込んだ家というのは、初めてお目にかかりました。
やぐら(鎌倉の周辺にある鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られ、または使用された横穴式の納骨窟または供養堂である。 現在では風化で苔むした洞穴にしか見えないが、建立当時の内装は豪華である。by Wikipedia )は興味深く大好きなんですが、共生するにはちょっと怖いかも・・・

この広場では、子供たちのワークショップをやったらどうかなど検討がされているとのことでした(3つの穴はやぐらではなく、防空壕などとして掘られたものだそうです)
建物背後の山に登り見下ろすと建物の形がよくわかります


遺跡は後世にいろいろ改変されているようで、フォスターの設計時も手が加えられていますが、現代建築と「やぐら」の組み合わせ、大変おもしろかったです。室内のディテールにも様々な工夫がありました。
この建物を活用し鎌倉の施設としてオープンすることは、とてもよいことだと思います。ただ観光客でにぎわうと、この静寂さや神秘性みたいなものは失われるだろうなと思いました・・・両立は難しいですね。
最後に庭内にしだれ桜が植えられていましたが、切土した影響で元気がなくなりハリーポッターの暴れ柳みたいになっていました。

竣工時のすばらしい姿がフォスター事務所のHPで見られます。

◼︎由比ヶ浜の遺跡 2016年

由比ガ浜3丁目で実施されていた発掘調査で、市内初となる古墳時代(5〜7世紀)の箱式石棺墓が出土したということで見学会があり、参加してきました。


 鎌倉市のこどもセンターの建設地で、市内初の古墳時代の箱式石棺墓が出土した。 建設に先立ち、由比ガ浜一帯に広がる砂丘上に位置する長谷小路周辺遺跡約1,100平方メートルを対象に2016年2月から埋蔵文化財の発掘調査を実施。鎌倉~室町時代では方形竪穴建物7軒、井戸1基、土坑墓1基、イヌ、ウマ、ヒトの骨など、奈良・平安時代では竪穴住居12軒、土坑(穴)7基が見つかっていた。現在より4~5メートル深い窪地に生活の場があったとされる古墳時代では、炉跡1カ所、埋設土器2基、散乱した土器、貝殻、軽石などを発掘。そこに海岸から吹き寄せた砂で1メートルほど埋まった古墳時代の終わり頃とされる位置に、石棺墓1基、土坑墓1基、土坑などが見つかった。 石棺墓は部分的に加工した磯石の泥岩を長さ2.35メートル、幅1.14メートルに積み上げ、その中に作った長さ1.62メートル、幅0.35メートル、深さ0.45メートルの埋蔵施設の由香に泥岩を砕いて敷いたもの。埋蔵された人物は、頭を東南に向けて仰向けで体を伸ばした「仰臥伸展葬(ぎょうがしんてんそう)」の姿勢をしており、身長は156.2センチメートル。骨や歯の状況から15歳前後の男性とみられ、親族も近くに埋蔵されている可能性が高いという。
 
以上、THE PAGEの記事より引用
中央が石棺です
むかしの生活が下に眠っていると思うと、感慨深いです

◼︎鎌倉山 ink gallery 2019年

鎌倉に興味深いギャラリーがオープンしたと聞いて、さっそく行ってきました。
鎌倉山のink galleryです。

三谷龍二さんの個展「いまここに繋ぎとめるものたち」が開催されていました。
1974年に竣工した吉村順三さん設計の住宅と茶室を、中村好文さんの〈レミングハウス〉の設計で、ギャラリーとして改修したそうです。                        
道路から敷地がだいぶ高くなっているのですが、その高低差がよくわかる写真になりました。 
右側のトンネルを通って、道路から建物の中へ入ってきます。

         

茶室は、数奇屋大工の中村外二氏の施工だそうです。

松本観光

◼︎ 2019年

お正月明け早々、松本へ遊びに行ってきました。松本の観光といえば、定番の松本城

設計やってるので構造図もパチリ

   開智学校

そして瓦屋根がかっこいいなあと思った松本神社

さらに去年オープンしたという伊東豊雄さん設計の信毎メディアガーデン(写真撮り忘れました・・・)

草間彌生さんの展覧会をやっていた松本市美術館
(設計:宮本忠長建築設計事務所)

などなど松本市内を歩き回りました。
田川のほとりの「まるも旅館」に泊まりました。

お宿の解説
「現在の建物は明治21年(1887年)松本の大火後の建築された蔵造りで旧開智小学校を設計施工した大工棟梁、立石清重氏が手がけたもので松本らしさを今に残しております」
まるも旅館の一部である「珈琲 まるも」(松本民芸家具の創立者 池田三四郎氏が設計されたそう)では、友人イチオシのくるみのハニートーストをいただきました。

いろいろなお店も見て回ったのですが、おもしろいなあと思ったのは例えば
「栞日」という本の読めるカフェとギャラリー

前のお店である「高橋ラジオ商会」という看板はそのままに、中は全面的に改修されていました。
町の記憶を残しながら引き継いでいく−− 全部新しく改修するより素敵な方法だなあと思いました。

おまけ 以前松本へ行った時宿泊した、美ヶ原温泉の金宇館。どこを撮っても絵になるかんじで、素敵でした。

家のなかのガラス

寒川の家を改修して以来、Ootani Yoshiko Glass 大谷佳子さんのガラスや照明器具を、使わせてもらっています。寒川の家で育った大谷佳子さんはガラス作家となり、一つ一つ手彫りした耐火石膏の型で制作するガラス鋳造技法(キルンキャスト)を用い大判ガラス、照明器具、香水瓶、花器、うつわなどさまざまなガラス表現に挑戦しています。
寒川の家の照明器具、建具の明かり窓、玄関の壁にはめこんだガラスは佳子さんの制作です。

奥琵琶湖 菅浦

◼︎ 2017年

大垣市の友人に会いに行った帰り、近くのどこか、観光地ではなく、普段とは違う風景が見たいと探していたら、心惹かれる場所がありました。遠藤周作氏、白州正子氏も訪れ、寅さんのロケも行われたという、奥琵琶湖の「菅浦」です。
わたしは初めて聞いた地名でした。

以下、Wikipediaより
菅浦の湖岸集落(すがうらのこがんしゅうらく)は、滋賀県長浜市西浅井町の琵琶湖に突き出し岬状をなす葛籠尾崎の西側入り江に位置する。
険しい山に囲まれているため、水運主体の隔絶された集落であったことから早くに惣村が形成され自検断を行使し、近江国を領有した京極氏や浅井氏の統治を嫌い対立したこともある。
集落の東西には境界となる「四足門」が残されており、部外者の出入りを厳しく監視していた。
茅葺屋根の「四足門」
漁港なのに磯の香りがしない、、湖だからか!と妙に納得したり、、
おもしろかったのは、集落内に通勤時間のかからないヤンマー農村家庭工場があったとのこと、
職住近接のはしりですね。
菅浦散策後、長浜にでてラーメンを食べお参りした大通寺の初夏の写真を見ながら、あっという間の夏だったなあと思うのでした。 

清瀬の家 川を眺める家


大きな川に面する環境が気に入って中古住宅を購入し、リフォームして暮らしていました。生活するうちに、いろいろな不便や、川を眺める大きな窓がほしい、川と反対の道路側の開けた風景も眺めたい、という思いもあり建て替えを決意、設計の仕事をされているご主人とキッチンプランナーの奥さまで、侃侃諤諤、基本設計をまとめられました。
実施設計をわたしが受け持ち、川に向かって開かれた家となりました。

バルコニー

欧米スタイルの住宅に3世代でお住いのFさん。
バルコニーが傷んでしまったので修理をするとともに、3世代の洗濯物を干しやすく考えました。

洗濯物を置いたり、ちょっと休憩できるベンチも設置しました

外壁の色に合わせた、えんじ色のバルコニー

塩山 甲州民家

◼︎ 2011年

甲府での仕事の帰り、塩山で途中下車して甲州民家を見に行きました

塩山駅前 突き上げ屋根が特徴の甘草屋敷(旧高野家) 
妻側はこんなふう

レンタサイクルで甲州民家が残る
上条集落へ向かいました
国道沿いをしばらく走り左折して坂を登っていくと、しだいに突き上げ屋根の民家が現れます

自転車で走り抜けるように見て回りましたが、ゆっくり歩いてまた訪れたいです

町田

◼︎ 芹ヶ谷公園 2011年

独立してから10年以上たち、地元町田に事務所を移しました
事務所の近所の芹ヶ谷公園 木々がのびのびしています

公園内には道に沿って小川が流れています

紅葉もきれいです
公園の近所に昭和の風景が・・・ どぶの蓋が木製でした

◼︎ 里山風景 2011年

ところかわって、同級生のおうちの裏庭(というか裏山・・)
まわりは住宅街ですがここだけぽっかり別世界です
いつまでもこのままで・・・と勝手に願ってます

根津界隈

◼︎2008年

稲村が崎から仕事の都合で事務所を根津に移転しました 

根津神社のつつじ

東京のこの地でこれほど古いものが残っていることは、驚きでした
車の行き交う不忍通りを一歩入ると路地がはりめぐらされています

かつては井戸のまわりに長屋が建ち並んでいたのでしょうか?
タモリさんもブラブラしていた事務所前の路地
呼びかけると返事をする猫がいました   
路地に面した家々は洗濯物に植木に、いかに日光をあてるか工夫しています

軒より背の高い物干し台もありました

根津から少し歩くと上野公園に着きます
今も富士山頂が見えるという日暮里の富士見坂
この日は残念ながら見えませんでしたが夕焼けがきれいでした
大久保に高層ビルが建つ予定で、富士山がほとんど見えなくなりそうと後日新聞で読みました(2011.11.9)

2011年 町田へ移転しました

寒川の家 芍薬農家の改修 

神奈川県寒川町で十二代続く、現在は芍薬を露地栽培している農家の住宅を設計事務所エーアンドエー時代の元同僚(椿千賀子・門田幸枝・竹内国美)3人で改修しました。長い時間をかけて作り上げられた風景を変えることなく、改修という方法でも快適な住まいは作れるということを地域の方々へ発信したいという、ご家族の強い思いがありました。寒川町をおとずれ、風景と暮らしを垣間みた我々はその思いに共感し、意義のある改修にしたいと考えました。家は築53年を経た、小舞い壁、瓦屋根の古き良き日本らしい住宅でした。芍薬博士と呼ばれた大谷応雄氏(先代)の作った庭は、ココス椰子、ドラセナ、ソテツなどが成長し、どこか南の国にいるのかと思わせる風景を作り出していました。この庭とのつながりや断熱材の入っていない冬の寒さなどの熱環境の改善、またさらに50年住み続けるための耐震性能の向上も大きなテーマでした。

銚子 小さな旅

◼︎2008年

東京から1万円で楽しめるところへ連れて行ってくれるというありがたい企画で、銚子へ行きました。
海の幸も魅力的ですが、銚子電鉄に乗るのも楽しみです。

銚子ポートタワーから見る月はきれいでした
魚がおいしかったー 

安芸の宮島

◼︎2007年

お土産屋さんをひやかしながら表参道を歩くのも楽しいのですが、一本山側の通り「町家通り」を歩いて厳島神社へむかいました

はるか向こうに五重塔が見えます
お店の向こうに五重塔
五重塔にだいぶ近づいてきました
厳島神社です

翌朝引き潮を待って、鳥居の近くへ行ってみました     

だんだん……
だんだん……
近づいて…..

そして、厳島神社に参拝しました

朝のお散歩でしょうか  犬も歩けば・・・
28神社8.jpg

宮島を設計して作った平清盛さんと大工さん、すばらしいです
引き潮をおもしろがってばかりいて、潮が満ちた時の写真が一枚もないことに気がつきました・・・・                    

周防大島 陸奥記念館

◼︎2007年

夏になると戦争の報道が多くなりますが、特攻隊のドラマを見て、ふと、わたしの叔父さんも予科練で特攻隊で戦死したということを思いだしました。
なにげなく、インターネットで「椿 昇」という名前を検索してみると、特攻戦死者名簿にその名前を見つけました。

昭和20年3月27日
神風特別攻撃隊 菊水部隊 第二彗星隊 喜界島基地発 沖縄本島周辺機動部隊攻撃
聯合艦隊告示155号
操縦 少尉  谷  節夫  (和歌山・予備学13期)    攻撃103飛行隊
偵察 一飛曹 椿   昇  (茨城・甲飛11期)

戦後遺族にはもちろん知らされていたことだと思いますが、その遺族も亡くなり、喜界島から出発し沖縄戦で戦死したことなどを初めて知りました。
さらに、甲飛11期ということを調べてみると、昭和17年に16,17才で土浦海軍航空隊に入隊した585名であること、艦隊艦務実習の為、戦艦陸奥・
長門・扶桑に分かれて乗艦した同期生のうち124名が昭和18年6月8日に陸奥と共に爆沈したことがわかりました。
残る同期生は予科練卒業後、各戦闘航空隊に配属となり比島・台湾・南洋・沖縄本島・本土防衛の各航空戦、及び神風特別攻撃隊院としてたたかい、
終戦までに237名が戦死したそうです。
そして、生存同期生及び遺族が戦艦陸奥が沈んだ海をのぞむ周防大島の陸奥公園に「若鷲の碑」を建立し、同期生全員の氏名を刻んだということが
わかりました。
またそのころ偶然、吉村昭さんの「陸奥爆沈」という本を知り、沈没原因が謎であること、一般には秘匿にされていたことなどを知りました。
周防大島の陸奥記念館を訪れました。

「みかんの島」である周防大島は、海のきれいなおだやかな島でした。

陸奥記念館は、愛媛県寄りの端の方にあり、陸奥公園からは江田島方向の海が見えます。


3km先の柱島泊地で爆沈したそうです
戦時中はかなりの数の船が泊まっていたとタクシーの運転手さんが話してくれました
今はきれいな静かな海です
この日は風が強かった  

                         

この陸奥公園に予科練甲飛11期生の慰霊碑「若鷲の碑」がありました
叔父さんは陸奥に乗艦していたわけではありませんが同期生ということで、「椿 昇」と刻まれていました
帰りはバスで大畠駅にでました                           
海の真ん前にある駅ですが、人が少なかったこともありなんだか寂しく、海をながめました

石州瓦の町並み

◼︎2006年

石州瓦の赤い屋根をテレビで見て、赤瓦の町並みに行ってみたくなりました

島根県の石見地方を訪れました 石見銀山
龍源寺間歩へ向かいます 
格子のきれいな物干し場

玄関コレクション

武家の凛とした、たたずまい 屋根に敷かれた竹は雪止め?でしょうか

そして近くの温泉津(ゆのつ)温泉に泊まりました

赤瓦と緑のコントラストがきれいです 


商家の前を通って
港に出ました 
温泉町であり、港(津)町です

鳥取県 三徳山三佛寺へ

◼︎2006年

この日は雨で入山禁止 このまま帰るのはなんとも心残り
ここまで来たからにはと、明後日に再アタック
聞きしにまさる参拝登山
登って登ってやっと文殊堂にたどりつきました
手すりもなにもないお堂のまわりをこわごわ歩くと、空に浮かんでいるようです
雨がたまらないよう、板に勾配がとられているのを足の裏で感じます
さらに登って地蔵堂
観音堂の背後をくぐり、
ついに投入堂があらわれました
投入堂だー

登山の途中で出会ったお坊さんにうかがって、人があまり訪れないという宝物殿に立ち寄りました。
投入堂に安置されていた蔵王権現立像、狛犬さん、観音様に参拝し、大正時代の修復で取り替えられた投入堂の柱や梁に触れ
1000年という時を思いました。

アンダーザツリー

緑の山を背景に浮かぶ、白い倉庫のような船のような外観。室内は、規則的に並ぶ柱と梁、分厚い床板の木だらけ空間。窓から見える景色も緑いっぱいですが、室内のジャングル化計画も着々と進行しています。外も内もここまでのびのびとしたところで育った男の子は、どんなオトナになるのでしょう。お父さんが仕事の合間に少しずつ張った屋上デッキからは、一本道の向こうに海が見えます。

ウエストタワー

夫婦と姉妹、4人家族の家。

2階リビングで、1階をプライベートなスペースとしました。子供たちはベッドが置かれた最小限の個々のスペースで本を読んだり、玄関、廊下、階段までを含むプレイルームで遊んでいます。プレイルームは親がパソコンや作業をする親子共通の場所でもあります。室内建具を開くと1階から2階までがつながったひとつの空間となり、OMソーラーとストーブの補助暖房を採用したことで、冬でも各室の室温差が少なく、暖かく過ごしています。